Project Description
合格請負体験記
タイトル : 高知県の義彦君
目標中学 : 灘中学
出会い
高知県にお住いの西村さんはご夫婦で病院を開業されているご家庭でした。
長男が小学校5年生、長女が小学校2年生の時に我々の事務所に連絡がありました。
当初から「合格請負コース」があるわけではなく、普通の家庭教師派遣センターであり個別指導の塾を運営していた我々はどうしても灘中を狙っているのであるというお母さんのお話が始まりでした。
よく聞くと高知県から子供二人を連れてお母さんは大阪市内に中学受験のために引っ越しをしていました。最初は大阪の方かと思っていたのですが、高知でご主人と開業し、出産したあと、中学受験を考えるようになって大阪に来たとのことでした。大きな理由は地元には進学塾はなく、また進学校と言ってもそれほど有名なものはないところで、日本一の灘中に自分の子どもを入れることができるのではないかと考え、家族で話し合ってのお母さんと子供二人の大阪での住まいが始まったのでした。
浜学園に入塾した長男義彦は地元ではかなりできた部類に入ったかもしれませんが、塾の中では上から3番目のクラス。同じ5年生のクラスが全部で12クラスあるその塾ではトップ層にいるとは言えない状況でした。
一番のネックは彼が灘中に行きたいという強い希望がないということです。我々塾講師が一番厄介なのがこのタイプになります。地頭がよいので成績はそこそこ、少しエンジンをかければすぐに理解できる、そんな優秀な子どもであっても、超難関校の合格は追いつきません。今まで、灘中に行きたいと思っていない生徒が灘中に合格した例は一人もいないからです。よく言うたとえ話ですが「散歩に出かけた人がたまたまエベレストの登頂に成功した例はない」ということです。エベレストと同じ中学受験最高峰の灘中においては必死に勉強するだけではなく、精神的にも「必ず合格する!」という強い意志が絶対的に必要なのでした。しかし、義彦にそんな気持ちはありません。ある程度頑張っていたらいいや、という感じしか印象として受け取れないのでした。
そんな彼を見て私も「ある程度の進学校で良いのではないですか。」とお母さんに進言したのを覚えています。
しかし、お母さんの一念は非常に固く、必ず灘中に入れたいとのことでした。
今思うと義彦本人の決意よりもお母さんのあの時のセリフが私を突き動かしたような気がするのです(笑)。
灘中の入試
灘中に合格するためには算数100点のテストを二日間、同じく国語も100点のものを2日間。理科だけ初日に100点満点のテストが一回。合計500点で競われます。倍率は大体2.5倍から3倍弱。実質は2倍程度ではないでしょうか。合格最低点も年によってばらつきはありますが280から320点くらい。6割5分取れば十分合格する水準です。東京から記念受験する(実力を試すため灘中を受験するが合格しても入学しない)子供が合格した後辞退するため「繰上り合格」があります。ここで合格最低点が3点から8点くらいまで下がりますので多い時で10人前後が繰り上がり合格になります。
義彦は温かく育てられたのか、甘やかされたのか若干肥満気味で、歩くのもめんどくさがりエレベーターの好きな子どもです。体力が必要な中学受験でデブは不利です。激ヤセの子どもも不利ですが、緩慢な動きをする子供に受験のシャープさを求めるのはキツイ作業でした。体調管理も大事なところだったので、私は必ず週に何度かの運動をするように伝えました。キャッチボールでも散歩でもいいので少しは「汗をかいて」無駄な脂肪を付けないようにすることが長い受験生活を乗り越える秘訣だと思ったからでした。実際、何度か近くの公園で義彦とキャッチボールをしたのですが、最初は少し離れたところに投げたボールを取ろうともしないやる気のなさに辟易としたくらいです。最終的にはピッチング練習ができるようになり、カーブもスライダーも投げるようなキャッチボールになりましたが、はじめは顔面にボールが当たってしまうほどの野球音痴でした。ごめんね義彦!「顔面血だらけデットボール」は義彦と私の良い思い出となってるよね!(笑)
勉強の方は、指導に長けた家庭教師と塾の併用で進めました。算数は「難しい問題を解かない練習」や「簡単な問題を確実に解く練習」、特にそのような問題はいくつもの通り数で問題を解くことを徹底していました。国語については長文や詩が気になるのですが、何よりも一日目の語句を徹底して行いました。幸い、お母さんが幼少期の寝るときに行っていた尋常じゃないほどの本の読み聞かせをしていたのが功を奏しました。6年生になって、彼の国語力は低くても、語彙力と彼の話すたとえ話の面白さや微妙な言い回しはユニークでした。後年、彼の国語の力は灘中受験で培ったものがそのまま大学でも活かせている、と言ってます。その国語も塾の偏差値で55くらい。決して灘中に合格するレベルではありませんでした。同じ時期に算数が68を取ったのが小5の最高でだいたい60少し。悪い時は50代の時もありました。このままずっと今の成績でいると東大寺どころか星光も危うい生徒でした。ただ、受験まではちょうど12か月、1年残っていたのです。
合格請負
その時、必ず灘中に合格させたいというお母さんから教育相談を依頼され、現状の把握をしながら残り一年で合格させることができるか、という話がありました。私は合格してもおかしくないと思うが、本人のやる気が固まっていないのに馬の耳に念仏になるのであれば無理であることを伝えています。何よりも「本人の思い」、これがないとできないのです。それも「本人の強い思い」がないと。受験は最後は一人ぼっちの時間で勉強します。その時の最大の敵は自分であり、学力が少しくらい届かなくてもその「強い思い」があれば、合格できるのです。「多分合格しない」「自分より賢い奴がたくさんいる」など、否定的な気持ちがあふれる毎日になるときがきます。その時に「たとえ定員が一名であっても自分だけが合格する」という気持ちになれるかどうかが、実は合否の分かれ目なのです。お母さんがそう思うのではなく、子どもがそう思えること、これが最大の試金石です。
翻って義彦ですが、出会った時よりは灘中への思いが固まってきており、キャッチボールも散歩も行いながら、結構な時間を勉強に費やすようになってきました。テレビゲームだけは暇があればやっているようでしたが深夜に及んでやることはなくなり、3時間以上のゲームをし続けることはもうなくなりました。何よりも塾の公開テストの点数や偏差値を気にし始めたのは良い兆候でした。しかし、それでも気にする程度です。しかし、「定員が一人であっても自分だけが合格する」という強い思いにはまだまだ至っていません。
月に1度はお母さんと話をしている中で、確実に合格させたいので家庭教師もキャッチボールも教育相談も含めて、どうすれば合格するかを誘導してもらいたい、という話になってきました。そのころになると、私も義彦に徹底的にかかわることでこいつは合格してもおかしくないな、という感触を得てきてました。しかし、クラスは最高レベル特訓という特別に難しいクラスでは3組のままで、偏差値も65程度でした。70は必要な灘中にはあと5ポイント足りません。この最後の5ポイントが大変なんですが、実は大変ではないことを私は知っていました。「灘中学への誘導」。お母さんのこの言葉は私が深く考えるに至った大きなきっかけです。
灘中への思い
義彦にとって一番必要なものは「灘中に行きたい!」という熱い希望です。具体的なイメージをしてもらうために5月の文化祭に行くとか、灘中模試を受けて自分の位置を真剣に調べるなど、灘中への思いを周りから高めていくことは行っていきました。
そうこうしている夏休みにようやく勉強する毎日が苦しくなくなってきていることがわかりました。どのような勉強方法であったかは省きますが、本人が勉強を自分からするようになったのです。それまでは仕方がなくやっていた、時間が来るから椅子に座っていた、という状態でしたがようやく来る日も来る日も自分から勉強するようになってきました。これが10月です。入試まで残り3か月。その時点で私は合格するのではないかと思っていました。ほぼ毎日の連絡。宿題の達成率を聞いて、わからないところをつぶすように勉強を続けさせています。「限られた時間で問題を解くこと」「難しい問題はパスすること」「合格点プラス1点あれば合格すること」これらに集中してとにかく合格最低点を獲得する勉強に徹しました。算数の一問は4点です。1点の上に約6人いると言われている灘中の入試で4点は24人います。「簡単な一問を落とさない」ことが、国語の長文一問正解にする労力と比べるとコスパが違うことを徹底的に伝えての勉強を重ねました。最後まで粘ること、確実に正解を出すこと、しつこい指導はきっと義彦を嫌にさせたと思うと算数の先生は言ってましたがその継続こそが合格への具体的な道なのです。
最後のひと月
年末からの1か月は本人覚えていないそうです。最後の2週間はご飯を食べたことも記憶していない、というくらいの集中力でした。
私の感想は「ごぼう抜きしたな!」という感じでした。模擬試験は試験を受けたあと、採点し、偏差値を出し、成績を付ける所まで少なくとも2週間はかかります。実際、1月になってから行う模擬試験はありません。この最後の3週間での成績は誰にもわからないのです。競馬でいう最後の直線で義彦は他馬をごぼう抜きしたと思うのです。
偏差値が5ポイント足らないことは、途中の指標としては「参考」になります。しかし「参考」にしかならないのです。私からすると「あてにもならない」という感じです。
灘中への「合格への道」を家庭教師や個別指導の先生方と毎日考え続けたこと、何よりも義彦に灘中に行くねんぞ!と洗脳したこと(笑)が我々の最大の勝利の要因かと思います。
お母さんは合格した報告を聞いた時、まさに泣いて喜びました。人は泣いて喜ぶんだと目の前で教えてもらった思い出です。